「地震を体験して」



【匿名】

 一月十七日、5時46分 マンション5階にて。
 「ドーン」の音ではね起きようとした。ところへ、ものすごい揺れで、まずラジカセがお腹に落ちてさた。(不思議と痛さがない。)「そうだ!ガスヒーターを消す。ドアを開けよう。」と気付くが、四つん這いでも動けるようななまやさしい物じゃなかった。部屋の造りにより、タンス・テレビ・食器棚・他すべての物を東西に向い合わせで置いてあった。それが全部真ん中に向けて倒れてきた。(なせか食器の割れる音は耳に入ってこなかった。今も残っていない。)狭い部屋のおかげで△状態に空洞ができ、その中で小さくなっていた私は助かった。
 一震が止み、割れた食器類を踏み廊下へ出た。まっ暗。六甲山景が見える為、そちらへ顔を向けるが、ポツ、ポツと明るいだけ。目の前の家から火の手があがったので、すぐに火事だと判った。自家は?歩いて30分程かかるが、とにかく走って走って帰る。これまたマンションと同じ状態だったが、全員無事。ホッとしたのもっかの間、揺り返しが来る。
 病院は? 電話が通じない。使える公衆電話から病院へつながったのが、昼近く。「待機せよ」との事。数回の余震の中、気が気じゃなく、一夜を過ごすが、親に「少しでも早く病院へ行け」と追い出された。
 自転車で病院へ向かうが、西へ来るほど、目を疑うような光景。知らず知らずのうちに涙が出てきて前がみえなくなり、何度か止まってしまう。
 一日遅れて病院にはいった為、現状把握ができない。あせる。何かしなければ、できるはずだと思うが混乱の中、ウロウロするばかりで、足手まといだったかもしれない。そしてテキパキと動かれているスタッフの方々を見て、私一人の力なんてごくごくわずかな物だと痛感した。
 数日後、気がついたこと。
 最寄りの駅の改札を入った時、大阪方面へ向う人達の中から、「あれが震災ファッションだって、楽でいいねェー、大阪やと笑われるけど。」と言われた。それを五〜六人の人達が耳にした。ホームへ向かう階段で男性が「あんな人も居るんやなー。」と言った一言に、私も含めみんながうなづいた。電車に乗り、私が西宮で降りる時、「負けないでがんばりましょう。気を付けて、いってらっしゃい」と、送り出された時、なにかしら、うれしくて込み上がってくる物もあり、ホームから手を振ってしまった。
 自分が辛いからと言って人も同じだとは限らない。その逆もあるだろうし、心の痛みを判ってあげられないかもしれない。けれども、「他人の傷口を広げるような言動はしないように」と、強く心に誓った。
 最後になりましたが、あの大変な中、(寒さも加えて)水を持って来て下さった方々、深夜にもかかわらず、多くの差し入れを下さった方々に感謝致します。生さている事と、色々な事を考え、感じられる事に感謝。

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック