「阪神大震災を体験して」
患者さんの体験記


【匿名】

 何とも形容しがたい音か震動かも判らない感じで目覚めるとグラグラとゆれはじめ、棚の上にあった物が落ちてくるのが解ったので布団に潜って揺れのおさまるのを待ちました。
 しばらくボーとしていると二階の方で物を動かす音が聞こえたので、ああ皆無事だったなと思ってホッとした。息子が「母さん 大丈夫か」と覗きに来て、「外に出とかなガス臭いで。」と云われて起きだしたものの真っ暗闇のうえにそこら中にものが散乱しているので、手探りで上に羽織る物を捜して着ていると息子がスリッパを見つけて持って来てくれました。
 外に出るとあちこちで呼び合う声や、無事を確認しあう声が聞こえ、自然に広い通 りへと人々が集まって来ました。その通りのすぐそばの関学の学生寮が倒壊していて近所の男の人達が集まってガレキの下に人が居ると云ってガレキを取り除き始めました。すると其処に止まっていた車や通 りがかった車がライトを照らして人々の作業を助けていました。人の手だけでは、なかなかはかどらないし消防署に電話をしても応答がないので、息子が単車で走りましたが、消防署も無人だったので、メモを残して来たと云っていました。その頃には2人は助け出せたがあと1人か2人は間に合わなかったようです。夜が明けてくると、今度は自分の事が気になりだしました。
 今日は透析です。それも火曜日なのであまりのんびりはしていられません。とにかく、クリニックへ行ってみようという事になって九時三〇分頃息子と2人で車に乗って出かけましたが、国道2号線に出るともう車は動さません。歩く方が早そうだったので車を降りて歩さました。
 クリニックに行くともう何人か来ていました。先生も受付の所に立っていらっしゃったので、「どうですか、できますか?」と聞きますと、「まだちょっと解りません。今の所どうしようもないのでもう暫く待って下さい」と云う事でしたので、「一度出直して来ます。」といってクリニックを出て車に乗ったものの前にも進まず、後戻りも出来ません。仕方がないので側道に入って夙川に出ましたが、その時息子が「ついでに職場の様子を見に行く。」といって苦楽園の方を回って帰りました。苦楽園からの帰りに何か飲物でも買って帰ろうと思って、途中のスーパーに行くともう店の外迄買い物客が並んでいるので、あきらめて自動販売機で買おうと思ったがもうお茶は無く、残っているのはジュースくらいでした。家に帰り着いたのはもう昼過ぎでした。
 それから何度かクリニックと電話で連絡をとって宝塚病院へ行く予定になっていましたが、それも先方が断水の為中止になったと、聞いたのでとりあえずクリニックに行って待機する事にしました。クリニックに着くと、もう何人かの人が来て待っていました。
 一部の人は大阪の病院へ行くために、紹介状をもらって救急車の来るのを待っている状態でした。カリウムの検査をして、値の高い人から順にそれぞれ行く先を紹介されていましたが、肝心の救急車がなかなか来なくて、八時を過ぎた頃にやっと来て出発しました。
 丁度その頃に宝塚へ向かった人達が、引き返してきました。その中の何人かは大阪へ向かう救急車に車でついて行き、クリニックには、十人前後の人が残ったと思います。
 暫く待っていると先生が「残っている水で試運転をしてみて三時間出来るかどうかわからないがやってみましょう。」ということで透析が始まったのが九時前位 だったとおもいます。
 一日の緊張と疲れでしょうか。気分が悪くなった人が何人かいたようです。 何とか無事終えて帰り、支度をしていると、宝塚から残りの人が帰って来ました。その人達はそれから透析です。もっと遅くなった人もいたらしくて、先生やスタッフの方々は徹夜になったようです。
 今度の震災をとおして、日頃は無関心な近隣の人達も助け合ったり、昼夜をかえりみず、私達意者の治療をして下さった先生始め、スタッフの皆様、又遠くから駆けつけて下さったボランティアの人々、多くの物を失い、高い代償を払いはしたが、まだまだこの世も捨てたものではない、と分って救われた思いがします。

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック