震災後の日記より



【匿名】

 一月十七日(火)
 それは正に一瞬の出来事だった。ドーンという突き上げられる音と共にベットから落下。暗闇の中で何が起こったのかわからない。隣の部屋でドーン、ガチャガチャとすごい音。ガス爆発か、それとも得体の知れない侵入者が棒を振りまわして暴れているかと思った。そして次はすごい横揺れ。まるでジェットコースターに乗ったみたいに体が揺れ必死にベットにしがみついていた。後では観音開きの扉が開いたり閉じたりドタン、バタンとすごい音、地震だ。住居は九階の角部屋なので倒れるかと思った。一瞬静かになり、今の内だと思い恐怖の中で急いで衣類を身につける。物が移動して懐中電灯も見当にらない。子供達の安否が気になり電話しようと思っても不通 。泣きたくなった。気を取り直して、貯水タンクに水が残っていると思い、手さぐりで凹みのある容器すべてに水を入れる。風呂もバケツも水を満たすことが出来た。その時、錠のあく音。近くに住んでいる息子夫婦が懐中電灯を持ってかけつけてくれた。
 うれしかった。部屋の中は、テレビ、レンジ、シャンデリアとすべて落ちたというよりすっ飛んだという表現がぴったり。床より上にある物は全て落ち壊れている。重たいピアノがあっちこっち動き脚の輪がもぎ取られている。クリニックに電話したら比較的のんびりした院長の声。「透析の方はその内なんとかなるでしょう。明日は電車も動くから今日はゆっくり部屋の整理でもしたら」とのこと。八時頃娘夫婦が車を飛ばして東灘から来る。家族全員無事でまず安心。しかし東灘から神戸迄の様子を聞きこれは大変な事だと思った。 ビルの倒壊、高速道路の崩壊、家屋がほとんどペシャンコにつぶれ道路の寸断など。帰りも大変だろうと思いすぐ娘達を帰す。ベランダから西の方を見るとあっちこっちで火災発生。無情の炎がみえる。一日中サイレンの音鳴り止まず。とに角余震、火災が心配で人数が多い方が心丈夫なので犬を連れて息子の家に行く。
 一月十八日(水)
 何もしないでいると精神的に参ってしまうので仕事に行く事にする。犬の事が心配で息子に避難する時は連れて行く様に頼む。患者のHさんの車に乗せてもらって出発。三宮をすぎる頃迄はスムーズに流れていた車も灘の方に進むにつれ動かず、車の中でじっとしているより歩いた方がよいと判断し歩く。最初は西灘、東灘、芦屋の次が西宮で大した事はないと思っていたが、倒壊した家屋が道をふさぎ、避難する人々のすごい波。歩道を単車が走り思う様に歩けず。倒壊した家屋に生き埋めの人も居る様子。被害の大ささに驚き、歩さながら無性に涙が出て来る。夕方五時頃クリニックに着いた。十時間近い長旅だった。
 一月二十一日(土)
 交通の復旧の見通しつかず、しばらくクリニックに泊まることになり、長期計画が必要で、犬の件もあり昨晩家にもどる。水も十分あったので湯を沸かして髪を洗う。この時期に髪を洗えるなんて最高の贅沢かな…。息子達もしばらく大阪暮しとなるのでお互い準備に忙しい。三人小旅行に行く位 の荷物を持って出発。車渋滞の為又灘から歩く。十八日に比べると人も少なくずい分歩きやすくなっていた。私は二度目の徒歩なので自信満々だが、少々何物が重く痛くて歩きにくい。三人黙々と西宮北口へ向い大阪へ着いたのが十時頃、ネオンきらきらの大阪は別 天地に見えた。久しぶりの入浴。
 以後犬は高槻の病院に入院させ、手術。私はクリニックに泊まり落ちつかない日々が続いた。高度文明化した大都市に住み一瞬にして水が無い、ガスが出ない、電気がつかない、交通 手段が無いという生活を経験し、節約という死語も復活した。これが透析中だったら、又通 勤途中だったら全く異なった状況の中で生活が展開していたでしょう。
 今回の経験を基にしても結論は出ないと思います。しかし常に自分の立場を認識して、その状況の中で自分は何をすへきか、又何が出来るか前向きに考え行動したいと思います。全国からの暖かい善意の助力もありますか、ぽつぽつ自分達で出来る力も湧いて来ました。皆様頑張って震災前よりもすばらしい街になる様努力しましょう。

 

→目次へ戻る←

阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック