「阪神大震災を体験して」
患者さんの体験記


【匿名】

 私の家は、阪急宝塚駅の少し上の方にあります。地震の被害は神戸の方に比べるとさほどではないと思いますが、宝塚の大劇場が壊れたり花の道にある家が全壊したりと宝塚も昔からの古い家が多いので全壊している家が私の家の回りでも数多く見られます。又、日がたつにつれて空き地が増えていき、目にわからなくてもひどかった事を思い知らされています。私も地震の時は寝ていました。いつもならお弁当を作っている時間なので火を使っていたと思うと恐くなります。それはそれで良かったのですが、寝ているふとんの上に本棚の本が全部、落ちてきて動けず大変でした。やっとの思いで這い出し懐中電灯で家の中を見ると、まぁすごい事。これはもう皆様の家も同じだと思いますが、おふろ場の横の床はおふろの湯がこぼれてびしょびしょ。台所は食器やら食べ物などごちゃごちゃ、奥の部屋もサイドボードの中の食器が割れてこたつの上やら、ふとんやら、ガラスでピカピカ。外はまだ真っ暗だし、寒いし何がなんだかわからないけど、とにかく割れてるガラス類を集めないと部屋の中も歩けないし…と片つけていたのですがテレビは映らないし、ラジオもラジカセの大きいのしかなく、電池が足りなくてかき集めるのも大変で情報がわからないというのも心細く不安になるものです。でもすぐ二階の方と連絡を取りあったり、主人が近所を見て回ってきてくれたりして、とにかく明るくなるまでウロウロもできないと家にいて片づけていましたが、そうじ機も使えないと、あぶなくてすわれないし、又、今年は石油ストーブを出してなくて、電気ストーブしかなかったので、暖房関係が何もなく、寒くてパジャマの上にジャージをはいて、ダウンのジャケットを着て…というカッコウで動いていました。
 で、気がつくと外は明るくなっているし、お腹もすいてきてもう一〇時ごろだったのでしょうか、とにかく何か食べようと、おもちを焼いて食べました。この時はまだガスが使えたんです。この後、もうすぐに使えなくなり、二月二十七日まで使えませんでした。
 それから、近所の様子を見に行ったのですが、前文で書いた様に倒壊家屋が目に入り体が震えました。酒屋さんも、日本酒や醤油のぶんが割れて大変だと言ってられました。スーパーに行っても開いてないし、阪急電車を見に行っても動いていないし、この時はどうやって仕事場や病院に行けばいいのだろうと、ただ漠然と思っただけで、こんなに大変になっているなんて想像もしませんでした。この後、電話も使えなくなるし、隔離された様に思われました。
 そんな中でも病院は続けさせて頂きました。いろんな人達にも心配して頂きました。「皆で助け合って!」と言われていますが、私は助けてもらってばかりです。でも皆で励ましあって少しでも前進しないとダメですね。皆様も体には気をつけてがんばって下さい。

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック