「阪神大震災を体験して」
患者さんの体験記


【匿名】

 災いは忘れた頃にやって来る。と云う言葉を思い知らされた瞬時の出来事、大地震とは縁遠いように思い勝ちで、日頃から何の用意もしていなかった事を反省するよい経験ともなりました。  東京では毎年九月一日が近づくと各デパートでは、一せいに防災の準備のいろいろの物を売り出します。非常持出しリュックに缶 詰の水、乾パン、タオル等諸々のものをつめて用意したものでした。そして地震があれば、まず火を消して、逃げる所を開けておく事、と教えられドアを開ける様にしましたが、関西に帰ってからはすっかり忘れて居りました。又一瞬のあっけない激震で、その間もありませんでしたが…  夜が白み、暫らくして胸の早や鳴りをこらえながら、二階の階段を下り様にも、土砂でざらざら、手すりは、ずれて、ぶらぶらやっとの思いで階下に来ると、目に飛び込んで来た瓦礫の山、本箱はひっくり返り、ピアノは傾き、木っ端みじんに飛び散ったガラスや食器に茫然、何と恐ろしいエネルギーかと驚き、  やがて身内の者の安否が心配になりましたが、何所にも電話が通じず主人はお隣の家がなくなったと申しますが、私にはとっさに何の事か解らなかった。水も電気もガスも出ず、一番早く電気が通 じ、テレビで見る兵庫の悲惨な焼野原と、曲りくねったレールは、五十年前の空爆の跡を思い出しました。  翌日透析に行くにもガレージが開かなくて車が出せない、何とかたどりついた病院では、先生方始め看護婦様も皆患者の為に、徹夜で透析に当って下さったと聞き、頭の下がる思いで一ぱい、大阪の病院まで行かれた方も、大勢居られました。そしてこんにち私共の命があるのも、水の確保に一生懸命努力して下さったからで感謝の一言につきます。「透析と水」切っても切れない大切さを痛感しました。私は透析の帰りには、S様の息子様に助けられ、又ポリに貴重な水を沢山頂いて帰ったりと、多くの方々のおせ話になりました。その後家には住めなくて二ケ月の居候生活が始まりました。あれ以来続く余震におびえ最近は少しの物音にもギクッとなり、頂いたポリに水をはり、夜寝る時は着替えを包み、それだけでも持って逃げられる様にして居ります。  有り難いことに世界各国から救助の手が差し延へられ、又ボランティアの活躍も目ざましく、全国からガス、水道、電気の業社が、一日も早くこの災害から復旧する様、毎日走り迫って下さり、お陰でやっと不自由なく生活出来る様になりました。唯、我が家は解体され、身内に、一人の犠牲者を出し、これからが苦難の道だと覚悟を新たにして居ります。

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック