「阪神大震災を体験して」
患者さんの体験記


【匿名】

 「平成七年一月十七日午前五時四十六分」私たちの生涯にとって忘れることが出来ないというよりは、営々と築いて来た老後の生活設計を、根底から覆された時刻となった。たった数秒の震動でこんな大きな打撃を受けるとは。
 強烈な地震の割には被害は小さそうだと思ったが、外に出て多くの家々が倒れたり傾いたりしているのを見て、大いに驚くと共に、「透析は大丈夫だろうか」と言う考えが頭をよぎった。
 瓦礫を踏み越えて宮本クリニックへいそいで行ったが、夕方に出直すようにとの事だった。私たち患者にとっては先生を信頼し、そのこ指示に従うより方法はない。夕方再度クリニックへ行く。宮本クリニックでの透析は不可能なので、院長生生の適切な指示を受け、私は知人の方々と共に、救急車で大阪江阪の井上病院で午後九時より十二時まで透析を受け、これでやっと命が助かったと胸をなでおろした。タクシーで帰宅したのは午前二時だった。一生忘れえぬ 透析の思い出になることでしょう。
 震災後二回目からの透析は、院長先生はじめスタッフの皆様のこ努力により私は、宮本クリニックで受けられるようになり透析に関しては安堵することが出来た。 一方地震による自宅の被害ですが、二軒横の古い文化住宅からの将棋倒しで、やや傾いた程度だから、大工さんに修理してもらえば住めるだううと思っていた。が、その大工さんに、危険だからすく避難するように言われ、近所に住み、被害のほとんどない弟宅へ引っ越した。その頃から、家内が体調を崩しはじめた。自宅は取り壊さなければならないし、弟の家とはいえ親切にしてもらっても、何かと気を使うのが原因のようだった。
 私たち夫婦はもともと病弱で何か大災害があれば死んでしまうだろうと、時々二人で話していました。その大災害が発生しましたが、皆さんの親切に支えられて何とか生きのびることが出来て大いに感謝しています。   ライフラインのうち電気は比較的早く復旧したが、電話、水道、ガスは切断され、苦しい日々が続いた。こんな状態のなかで、私たち夫婦が元気で過ごせる筈がない。二月二十一日、私は心不全で兵庫医大へ入院。二日後、家内は低肺機能で京大病院へ入院。私は二十一日間で退院出来たが、家内は四月十日現在、まだ入院中です。  私たちが選んだ道だから後悔はしていないし、これからも助け合って生きて行く目算(つもり)ですが、弱者同志の夫婦はこんな時に破綻がおきる。日頃からの心配事が、現実の型となって現れ、老後の生活の建直しを考えねばならない。
 幸い二月初旬、自宅の横のマンションを、お借りすることが出来た。僅か震災後二週間で。神様のお助けがあったかも知れないと思っています。でも引っ越しが大変だった。マンションの広さは前の家の半分だから、家財道具をある程度捨てねばならなかった。何れも思い出のある品なので、思い切るのに決断が必要だった。私たち夫婦は全くの無力なので、多くの親戚 、友人知人がボランティアで掃除運搬などをしてくれた。皆さんの手助けが涙が出る程嬉しかった。
 震災を通じて人間の本質のすばらしさ、やさしさに接し感動しましたか、反面 一晩の地震により私たちの受けた打撃の大きさに、ややもすれば立向かって行く気力を失いそうになる。仮住まいだが、生活の場も出来たし、間もなく夫婦揃って生活が出来る楽しみもあるが、自宅の再建という大きなハードルを越えねばならない。  自宅の全壊、夫婦の入院生活と、私たちは心身ともに疲れ切った。老後の設計も無残にも崩れ去った。気力を出さねばと、日々自分と闘っています。現状をしっかりと踏まえて、皆さんの親切に支えられながら、小さな幸せを求めて、一歩ずつ再起の道を求めて前進して行く覚悟です。

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック