「阪神大震災」
患者さんの体験記


【匿名】

 その日の朝は、物凄い揺れで目が覚めた。
 外へ出てみると、それは悪夢でも見てるかの様な悲惨な状況だった。電柱は倒れ、地面 には亀裂が走り、遠くの方では火事が発生していた。とんでもない事態になってしまったと痛感した。
 私は透析日に当たっており、まずクリニックへと向かったが、信号は故障、倒壊した家屋なとで道路はあちこちで寸断されたり、大混雑。やっとの思いで着いたけど、断水と機械の故障で透析は無理ということだった。そして、宝塚病院を紹介されて行ったが、すでに断水していた。往復に十時間程かかり再びクリニックに戻ったのは深夜の一時を過ぎていた。
 そしてようやく透析に入ることが出来た。次の透析は、尼崎の友人宅からクリニックへ通 うことが出来た。しかしすへてがマヒしてしまった状況での生活や、通院は困難と判断して、比較的被害の少なかった北区の親戚 の家へ移る事に決めた。近くで透析施設も探し、約一カ月間は平穏な暮らしが出来た。そして、東灘区の自宅あたりでも水道や、電車が復旧し、何とか生活ができそうになってきたので帰ってきて、クリニックへの通 院も再開した。
 あの大震災から三カ月が過ぎ去ろうとしているが、町の中はあの時のままの状態で、手つかずの倒壊した家屋や、ビルが多く見られるし、テント生活などで不自由な生活を送っている人たちもいて、被害の大きさを痛感させられる。
 しかし、将来へ向けての新しい都市づくりの提案も成され、確実に復興へ向けての道は開かれてきている。これらに携わって下さった多くの人たちに、私たち被災者は感謝の気持ちで一杯である。そして、この、貴重な体験を一生忘れる事なく、これからの人生を大切に生きていきたいと思う。

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック