「阪神大震災を体験して」
患者さんの体験記


【匿名】

 私は毎日朝五時四十五分に起きて、まず茹卵を作ります。冷蔵庫から卵を出して前の日から用意してある、水の入ったお鍋に入れてガスをカチッと付けた瞬間でした。グラグラと、大きく揺れました。アッ何だろう…地震だ、どうしよう…そうだガスを消さなければ…と思い、消すと同時にドスンドスン、グラグラとすごい揺れでした。食器棚の近くで寝ていますので、倒れて来たら大変だ。押さえようかと頭をかすめましたが、出来ませんでした。怖くて怖くて、気が付いたら布団を頭から被っていました。物凄い音と共に、ガラス類ばかり入れていた食器棚が落ちてました。大きい方のも、目の前に落ちてメチャクチャになって足の踏み場もありません。ポットは落ちて水と砂糖、醤油、塩、ワイン等色んな臭いで気分が悪くなりました。私は恐くて声も出ませんでした。家族の者もびっくりして起きたその後の、布団の上にタンスが落ちていました。後で見てゾーとしました。起きていなかったらタンスの下敷きになっている所でした。
 何から手を付けたらいいのか分かりません。まず倒れている物を立て、ワレモノの整理が大変でした。ホッとしたらお昼を過ぎて二時過ぎでした。食事をしようと思いましたが、水もガスも止まっていました。何もないので食糧の買出しに行ってもらったら 「どこも閉まっていてダイエーだけ開いている」 と聞き行きましたが、入場制限で入れませんでした。走り回ってパンとお茶を買って来てくれて、やっと一息つけました。気が付くのが遅かったので水もウーロン茶も、何も買えませんでした。子供がバイクで、水をリュックで背負って会社から持って帰ってくれて、その他カセットコンロ、ボンベ、インスタント食品、六甲の水、ウーロン茶、ムギ茶等いろんな物を走り回って、買って来てくれましに。ボーとしていた私には、とてもうれしかった思い出が残りました。
 私の事を知っている方からは、透析を受け入れてくれる病院を紹介しているから早くテレビを見なさいと、いろいろ心配して下さいましたが、私の心の中はクリニックに、連絡さえ取れれば先生が何とか、指示して下さると思っていましたが、電話が通 じないので困りました。公衆電話からやっと連絡が取れて、とにかく病院に来て下さいと云う事だったので、十八日自転車で行きました。その日は三時間透析で次は大阪の中村クリニックに行かせて下さいました。地下鉄で反対の方に乗って、又引返して無事透析を受ける事が出来ました。院長先生始め皆様とても親切で、一回だけでしたが、とてもいい思い出になりました。
 私も少し落ち着かなければいけないのですが、まだ何もする気がありません。家の中は避難所そのものです。毛布、リュックいろいろな物を横に置いてトレーナーのまま寝ています。要注意の家なので、次の地震が来たら早く逃げないと危ないので安心しておれません。もうこんな恐しい事のない様お祈り致します。
 先生方、スタッフの皆様方、大変な時、いろいろありがとうこざいました。 感謝致しております。今後共どうぞよろしくお願い致します。ありがとうこざいました。

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック