「大震災体験記」
患者さんの体験記


【匿名】

 枕元のラジオを聴き乍ら心よいうつつの状態にあったとき、突然下から突き上げ、又下ろされ激しい横揺れと共に、洋服タンスが倒れて来、危うくベットに支えられた為、自力で脱出したものの、うろたえて、只々とうしよう、どうしようと云い乍ら、大急ぎでパジャマから部屋着に着替え、真っ暗な中を靴下は、靴下は、と探し、手招搾りとリュックを背負い靴、靴と云い乍らガラスの破片の上を踏んで玄関へ行ったものの、ドアは曲って開かない。ベランタへ取って返すと、遠くから悲鳴とも唸りともつかぬ ものが、潮のようにに迫って来て、恐ろしいやら心細いやら、形容し難い思いでふるえていた。
 暫くして男の人三人が中島さん、大丈夫ですか?と中庭から声をかけてくれ、中にいたら危ないから公園に逃げなさい、と言って抱きかかえて、ベランダから下ろしてくれた。
 丁度この日は透析日に当っていたので、どうすれば良いか判断に苦しみ、先ず宮本クリニックに連絡の手段は無いか?と考え、いよいよとなったら歩いてでも行かねば…と思っていた所、誰かが公国にある公衆電話が掛かるようだ、と並び出した。約一時間後に順番が来て、幸いすぐに掛かり、「今はちょっと解らないので、午後からもう一度掛けて下さい」との事だった。公園は寒いので団地の集会室へ行きましょうと誰ともなく誘い合った。顔見知りの人達も、続々集まり出したので、やっと人心地がついた。少し落着くと、やっと妹達の動向が気になり又電話に並ぶが全然つながらない。そうこうしていると芦屋の甥が「叔母ちゃん、大丈夫だった?」と探しに来てくれ、よく見ると額や足に怪我しているのに 「今日は叔母ちゃんの透析日やからあとで僕が車で連れて行ってあげるから」と云い残して一先ず、帰って行った。すると三十分程して、今度は芦屋の姪が夫婦で探しに来てくれ、今から宮本クリニックに僕達か連れて行ってあげると車に乗せてくれ、割り方スムーズに病院に着いた。
 病院では機械が何時から使えるか不明なので、院長先生が宝塚病院に手配して下さり、私と松本さん、叶さん三人が姪の主人の車に同乗して宝塚へ向かった。ところが、段々混み出して、前へ進めないうちに、仁川で遂にガソリンが無くなり、今度は松本さんの息子さんの車に乗り換えて、四時間がかりで宝塚へ着いた。やっと透析出来ると思ったのも束の間、「お水が切れて透析は出来ません」との事、三人共がっかりしていると、後の車で宮本クリニックのUさんが来られて 「宮本へ帰りましょう。機械も直っているかもしれないから」と云のれるので、今度は六時間半かかって、宮本クリニックに帰って来たら、もう十一時半過ぎていた。透析に入ったのが真夜中の十二時、余震におびえ乍らの三時間の透析であった。姪が迎えに来てくれた時、「皆さん」と、と、小さなおむすびを持って来てくれ、朝から始めてお米を口にした。 その美味しかったこと。その日以降は順調に透析が出来たため、少しも不安は覚えなかった。
 ところでこの震災で、我が家は全壊の査定を受け、分譲住宅であるが故に、今後の再建問題をかかえ、老年者にとって悩みは尽きない。それに一ケ月余り姪の世話になり、良くしてくれればくれる程、身の置き所のない気持ちを味わった。一人暮らしで我がままに過ごして来た身には、一刻も早く家を見つける事だった。然し私のような年配者には不都合な事ばかり。新聞等では、お年寄りや障害者には、如何にも理解を示しているが、実際に役所へ相談に行っても、黄女と同じような人が沢山いるので、一々対応し切れないから、自分の希望を通 すならば、自分で探して欲しい、といった按配である。成程私も勝手な注文で、宮本クリニックを、離れたくない思いがあるから、クリニックに近い所で住居を決めたかったので、近辺を随分探して貰ったが、年齢的に難しく中々貸してくれる所が無かった。幸い、姪の友人の住むマンションに頼み込んで、やっとの事で落ち着さ先が決まり、安堵の胸を撫で下ろしたところである。前に住んでいたマンションの管理費も取られるし、今度のマンションの家賃も安からず、まあ有り金を、費い果 たして死ぬより仕方が無い、といったところです。

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック