被災体験
患者さんの体験記


【匿名】

 まだ、正月気分も抜けきらぬ一月十七日、火曜日午前五時四十五分、下から突き上げる様な衝撃で目がさめ、「今のは何」と思った瞬間、口では言い表せない程の揺れが襲ってきた。
 真っ暗で、何も見えない中、体もなにかに挟まれ、身動きできない。不安と恐怖で一杯になった。それでもどうにか抜け出し、電気をつけようとしたが切れていた。どうしようも無く、じっとしているのだが、又揺り返しが有るのではと思いながら、夜のあけるのを待った。明るくなってまのりを見たら、部屋の中は家具は重なって倒れ、棚の物は落ち、障子のガラスは割れ、壁の土が崩れてしまって、何もかも散乱して足の踏み場も無くなってしまっていた。外を見ると人々が右往左往し、風呂屋の煙突も無くなり、割れた瓦がいっぱいだった。幸い窓のガラス戸が落ちてしまっていたので、そこから外へ出る事ができた。九死に一生のおもいで、パジャマ姿のまま表に回ると、近所の人が毛布を掛けてくれました。身内や友人たちの無事を確認し合い、一緒に中学校の体育館へ避難。四〜五時間もすると被災者で一杯になり、中へはいれずに体育館の入口のコンクリートの庭で毛布をかぶっている人達もたくさんいます。夜になり、真っ暗な中空腹と寒さと、時々床の下から「ゴーッ」と地鳴りがして、突き上げる余震。皆んな、体力、精神的に疲れはてて、早く夜があけるのを待ちわびました。 一月十八日、透析日、連絡を取りたくても電話は使えない。公衆電話はたくさんの人が行列。携帯電話をもっている人が、当クリニックへ二〜三度かけてくれたのですが、通 じなく、救急車を呼ぶ事にしたが、いくら待っても来ない。とにかく兵庫医大へ行ってみようと、車で四三号線を走りました。やっとついて、受付で事情を話したが、病院の入院患者さん達もほかの病院へ透析に行ってもらっていると断られ、どうしていいのか立ち尽くしてしまった。もう一度、当クリニックへ電話を入れてくれ、連絡がつき、早く来るように言って下さって、車を引き返し、時間は短縮したものの、無事に透析を終える事が出来たのです。それからも、何度となく体調をくずしては送ってもらいました。
 ほかの病院へ行って透析を受けている人がいるなか、私はずっと当クリニックへ通 院させていただき、あらためてまわりの人達の親切と、クリニックの先生、スタッフの皆様に感謝しています。私達、透析患者にとって一番の頼りはクリニックです。
 二次で当選したものの「いつ、どこ」へと気にしていたが、やっと四月九日、川西グランド仮設住宅に入居する事ができました。寝食をともにした人達も早く仮設におちつける事を祈っています。透析、震災と二度も助けていただいた命ですから、大切に生きていこうと思っている今日この頃です。

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック