無題



【匿名】

 震災から約三ケ月、水道・ガス・電気も復旧し以前の生活にもどりました。
 あの日を思いだすたびに、恐怖がよみがえります。突然“ゴオウ”というも のすごい音とともに、家が大きくゆれ、家の中の物がたおれてきました。“早く外に出よう”とさけび、コートを来て外に出ました。まだ暗くて回りの様子もわからず、ガスの臭いと近所の人のさけぶ声が聞こえてきました。しだいに明るくなり、家の周囲が、みるかげもない様子に、ただボーとしていました。それから何も手につかず長い一日がすぎて、その日は家族3人車の中にふとんをひいて眠ました。主人も私も仕事先に連絡がなかなかとれないまま、三木の姉の所へ行き、無事であったことをみんなで喜びました。そしてやっと婦長さんに連絡がとれ、院長先生及びスタッフ、患者さんもみんな無事との知らせにホッと安心しました。
 姉の所に一週間ほどおせ話になり夙川に帰ってきました。帰る時も、西宮に近つくにつれ戦場の中に入っていく思いで、とてもつらかったことを覚えています。帰ったその日も車で眠ましたが、何度も余震がきていました。でも家で眠るよりは安心と思い車の中で朝まですごしました。
 次の日、クリニックへ行き、しっかり立っている建物にビックリ。中に入りスタッフが化粧もせず、一生懸命頑張っていたことに涙を流し、私は何もできなかったことをくやんで家に帰りました。それからしばらく休みをもらい、主人と二人で家の中をかたづけました。何から手をつけていいのかわからず、しばらく部屋の中をジーと見ていました。少し時間がたってからとりあえず、一日目台所、二日目は四畳半、三日目六畳、四日目階段から玄関、トイレとかたづけました。何日かしてから仕事にもでましたが、家に帰ってきてからも、夜おそくまで水くみにおわれ、またある日は往復4時間もかけお風呂に入りに行く日がどれくらい続いたでしょう。仕事から帰ってきて、出ないだろうと思いながら水道の蛇口をひねり、水が出た時は子供と二人で“やったね”と喜び、自分の家でお風呂に入れた時は主人と“狭くてもやっぱり自分の家で入る風呂が一番いいね”と喜びました。  まだまだ余震の続く家の中で不安な日々が続いていますが、五才の子供に“お母ちゃん、もう忘れなあかんよ、いつまでもくよくよしていたら、楽しくやろーよ”と。子供も子供なりに頑張っているんだなあーと。日本中を恐怖に陥らした地震のことを忘れてはならないけど、いつまでも不安を抱いていては前にすすめない。
 五千人以上の人が亡くなり、家の回りもほとんど倒壊したなか、家族三人いっしょにいられることを不思議に思い、また幸せに思っています。そして主人とも話をしたのですが、いままであまりにも、いろいろなことに無関心すぎたこと。他の地方でいろいろなことがおきても、大変なことになったなあーと思っただけで、何一つ援助していけなかったことを、ふかく反省しています。何ができるかわかりませんが、何かひとつでもやくにたてることがあれば、援助していきたいと思っています。

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック