無題



【匿名】

 「ドーン」という音で目醒めた時から、含まで事件や天災のニュースを見て驚異を感じても他人事のように思っていた私が、人々を震撼させた天災の真只中にほうり出されたのでした。ふとんをかぶり、ベットから落ちないように体をえびのように丸めました。だんだん恐怖が襲ってきて、「こわいー」と思わず声に出したほどで、何分もの長い時間に感じました。壊れた家、陥没した道路を見て驚きましたが、横倒しになった高速道路を見た時は、ショックを受けました。
 今回、私が感じたのは、ライフラインといわれるものがたたれると、私達は、たちまち生活をおびやかされるということです。日々、あたり前に利用しているものが、どれだけ生活の主をなしているのか、感じずにはいられませんでした 我家は、三日間電気が来ませんでした。あの寒い中、お湯もありません。体中にカイロを何個も貼りましたが、灯の点らない隙間だらけの家は冷えきっており、ふとんに入っても体は冷えたままでした。すぐ近くまで、復旧していたので、近くの方が湯わかしやポットの電源を入れさせてくれ、その間テレビも見せてくれました。その時です。焼けている街のテレビを見たのは。想像以上のことに現実のこととは思えず、絶句してしまいましに。あらためて家族全員の無事と(かたむきながらも)住める家が残ったことに、感謝せずにはいられませんでした。看護婦の若い方のYさんが、カセットコンロを貸してくれ、温かいものが食べられるようになりました。感謝。感謝。
 十九日夜、ロウソクで食事をしていた時、どこかでブーンと音がします。 何かゾーッとして耳をすませました。弟が「冷蔵庫や」と叫びドアをあけると電気がつきました。うれしくて、うれしくて、さっそくポットで湯をわかし始めました。父は「今日は、電気敷毛布でホカホカや」と喜び、家族でワイワイとテレビを見ました。電気がつくまで呪いのようにロウソクを並へ、口数も少なく暗い家庭(?)でしたが、あかりの灯ったわが家は、急に活気をとり戻しました。ただ、その夜遅く再び停電となり、電気敷毛布を敷き、はりきっていた父は、寒くて目が醒めたそうです。真っ暗な中、毛布をひきずり出したと次の日ぼやいて、みんなを爆笑させました。大阪に通 勤している弟は、会社が休みとなり毎日ボランティアに出かけました。そして、仕事から帰ってくると、みんなで水くみの毎日です。せめて電気だけはと思っていた我家の面 々も水くみには、ヘトヘトになりました。昔の人達はえらい。水もくんで火をくべて油で火を灯して生活していたのですから…。
 疲れた私達を元気つけてくれたのは、人のやさしさ、あたたかさでした。甲子園から(電車が甲子園までしか来てなかった)歩いて食へ物や物を持ってきてくれたいとこたち、親戚 、知人からの荷物、手紙…などなど。「人を救えるのは人」とCMではありませんが、通 勤の途中、雨の中、がれきの瓦ですべってころんでびしょぬれになった私にタオルをくれたおばさん、近所ということでいろいろなことを教えてくれたTさん。同じ芦屋ということで風呂のことなど情報を教えてくれたTさん、lさん、クリニックにおにぎりを持ってきてくれた患者さん達、自分の家のモーターをつかい井戸の水を分けてくれた近所の方、他にもたくさんの人に助けられました。本当にいろいろな人に元気づけられ、あの混乱の中、暮らせたと思います。又、自衛隊、警察、消防隊、ボランティア、工事の人達、本当に夜を徹して作業されており、頭がさがりました。人のぬ くもりが身にしみた日々でした。そして、クリニックで「出た?」と言い合った日々、電気の灯った時、水の出た日、ガスの出た日、そのひとつひとつが出た時のライフラインのつながった時の喜びを忘れず大切に使いたいと思います。

 

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阪神大震災報告 (c)1995医療法人平生会 宮本クリニック